ワンポイントアドバイス
企業における経営の問題点は現場にあり、 その問題点の解決方法も現場にある。 (中田賢治の経験則)
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レポート
礼儀作法
全員参加生産保全・TPMの効果
経営・技術コンサルタントの選び方 「コンサルタントとは顧客から数字を聞いて,それをつき返す不思議な人である」(マグドナルドの法則)
ゴミ無し汚れ無し(清掃・点検)の目的と効果
フランクリンの経験則
CARLOS GHOSNの日産改革 (技術士・中田賢治)
ゼロサムと付加価値の相関 技術士 中田賢治
書は知識の泉・目から鱗(うろこ)が落ちた
躾が第一で進める5S運動
CARLOS GHOSN(カルロス・ゴーン)の日産改革 (中田技術士報告)
生産活動における理論と実践
10%のコストダウンは売上2倍に相当する利益を生む                                     技術士 中田賢治
フランクリンの経験則
Robert Lusser(ロベルト ルッサー)の法則 技術士・中田賢治
企業の生き残りを左右する情報の質、量及び速さ
独自性について考える
ローコスト・オートメーション(Low Cost Automation)LCA 経費、費用のかからない自動化機械、装置
付加価値は企業の社会に対する貢献度のバロメーター・生産を示す指標
リコール問題について考える
売れる新商品開発の一方式(重要10項目提案)
「故障ゼロ達成の改善ポイント」
道徳教育と教育勅語について
超高品質の時代 (PPMからPPBへ)
PPM時代の信頼性とリコール問題
イグアスコーヒー社(ブラジル)の桜について
「躾が第一で進める5S運動」
日本の自動車工業の創成期に関与して
PPMからPPBへ (超高品質の時代)
ゴミ無し汚れ無し(清掃・点検)の目的と効果
新商品開発の進め方指南
桜咲く・・・の報告が届いた
今、何故また5S運動なのか(5Sと改善)
工業移住者協会(ブラジル)機関紙「なかま」への寄稿
急進する中国自動車産業(中国問題レポートNo.3)
中国の製鉄産業の現状(中国問題レポートNo.2)
中国の環境汚染問題を考える(中国問題レポートNo.1)
日米自動車工業の創成期に学ぶ
経営改善指南(こうすれば利益がでる)
日産 売上高、利益とも最高
先入観排除の具体的方法
製造業の新しい芽 新5S運動  
技術革新・最先端技術と翻訳、語学産業
中南米に於ける新5S運動の現状
日本青年会議所及び大学生への講演サービス
CARLOS GHOSN(カルロス・ゴーン)の日産改革 (中田技術士報告)
安いコストで完全に殺菌・滅菌する・・・ PURESTER・微酸性電解水製造機とはなにか?
PURESTER・微酸性電解水製造機(補足)
経営・技術コンサルタントの選び方 「コンサルタントとは顧客から数字を聞いて,それをつき返す不思議な人である」(マグドナルドの法則)
ODA改革(技術援助)のための一提言 「技術移転は人質移転」中田語録 
「故障ロス5つの改善ポイント」(設備投資を合理的に行う為に)
イグアスコーヒー社・Forbesの2003年ブラジル優良200社(NO.25位)の栄誉に! (2000年にはEXAME(経済誌)「ブラジル優良企業100社」に選ばれる)
経営・技術コンサルタントの地球表裏情報(NO.2) 「日本・ブラジル、子供の躾について考える」
経営・技術コンサルタントの地球表裏情報(NO.1) 「糸の切れた凧が無事戻ってきた」
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元気・知恵、出せ!頑張れ!中小企業
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ブラジルでの経営・技術改善(社長向き読み物)
不況時の設備投資の有り方(設計担当者必読)
教育勅語(きょういくちょくご)について考える(親孝行・躾がすべての基本)
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■  日米自動車工業の創成期に学ぶ

日米自動車工業の創成期に学ぶ

トヨタ自動車の渡辺捷昭(かつあき)社長と米ゼネラルモーターズ(GM)のリチャー・ドワゴナー会長が先週、米ミシガン州デトロイトでトップ会談を行ったことが一月十七日わかった。3月に期限が切れる、燃料電池など先端環境技術での業務提携の扱いなどを協議し、引き続き協力関係を強化することなどで一致した模様だ。今後は燃料電池の共同開発などの具体策について、実務レベルで協議を進める。(2006年 1月17日、読売新聞)

最近の年間自動車製造数でトヨタ自動車が9月、巨象GMを抜くことは確実視されており、コストカッターと異名をとるカルロス・ゴーン社長によって不死鳥のように業績回復、復活した日産自動車、2005年度のカー・オブ・ザ・イヤーに選ばれて気を吐くホンダなど日本勢の活躍を見るにつけ、日米自動車工業の創成期を記録しておくことも必要なことと考える。

幸い筆者は、昭和34年(1959年)大学卒業と同時に大手機械製造会社に入社し、日本の自動車産業の創成期に求められた部品加工機、加工工具、治具および自動組み立て機、更には5S(整理・整頓・清掃・清潔・躾),TQC(全社的品質管理)及びTPM(全員参加生産保全)などの生産性向上活動に直接・間接に関係し、日本自動車産業を見続けてきた。特に、トヨタ自動車の超ベストセーラ・カローラのエンジン部品加工機(トヨタ自工・上郷工場のカムシャフト、クランクシャフト旋削加工機ライン)に特別の思いがあり、これらを記録し、報告することは、今日、世界のものづくりをリードする日本の企業、若い技術者達の参考になるものと考える。

周知のように、世界で始めて量産自動車を作ったのはヘンリー・フォード(Henry Ford)であった。フォード家もアイルランドから来た移民である。アイルランドは1845年からジャガイモの不作で飢饉に襲われ、大量の移民が新大陸に渡った。1847年父ウイリアム・フォードはアイルランドからミシガンへ移った。そして馬車で西へ、エリー湖を船で渡ってデトロイトへ落ち着いた。ミシガン・セントラル鉄道の大工として、懸命に働いて40エーカーの土地を購入、フォード農場を開いた。野菜を作り、家畜を飼育し、果樹園を作り、メイプルシロップやバター、ろうそくや石鹸も生産した。へンリーフォードが生まれたのは1863年、フォードは1891年デトロイトに転居、エジソン電灯会社に就職。月給50ドルの機械工となって当時の最先端技術の洗礼をたっぷりと受けた。1893年フォードが見学に行ったシカゴ万博は20世紀の華やかの時代の到来を予告する、この上ないきらびやかなものであった。小学校に通う傍ら、家族の労働力として働く毎日だった。彼は少年時代から大の機械好きであった。

折からアメリカは発明の時代、1876年合衆国建国100年を記念してフィラデルフィア万博が開かれ、さまざまな機械が展示された。蒸気船、タイプライター、電信、ミシンなどが次々に登場。電話、蓄音機、エジソン白熱灯などもすべて1870年代を彩った発明であった。フォードは1891年デトロイトに転居、エジソン電灯会社に就職。月給50ドルの機械工となって当時の最先端技術の洗礼をたっぷりと受けた。1893年フォードが見学に行ったシカゴ万博は20世紀の華やかの時代の到来を予告する、この上ないきらびやかなものであった。

1880年、17歳のヘンリーは家を出てデトロイトのジェームズ・フラワー電気会社に就職。電気技師としての道を歩み始めた。その後1891年にはエジソン電灯会社へと移籍。ここではチーフエンジニアの座にまで上り詰めた。この頃、ヘンリーには具体化すべき夢があった。それはガソリンエンジン自動車を自らの手で製作することであったが、1893年には最初のガソリンエンジンの運転に成功し、3年後の1896年には「クアドシクル」という名の小さな4輪車の試作にも成功した。

1903年、ヘンリーは資本家を募りデトロイト・オートモービル・カンパニーをフォード・モーターカンパニーへと拡大した。この会社は単に自動車を生産するだけではなく、安い価格で大量生産することを目的としていたのが特徴である。世界中の人々に、くまなく自動車の恩恵をもたらすべく、ヘンリーの夢は次々と具体化していった。その集大成こそが1909年のフォード・モデルT、すなわちT型フォードの完成である。

T型フォードは部品の標準化を進め、オートメーション生産と併せてその単価を大幅に引き下げることに成功した世界初の大衆車だった。その825ドルという価格は標準的なアメリカ人労働者にとって少々無理すれば購入できる数字であり、さらにヘンリーはフォード・モーターカンパニーに勤務する労働者の賃金を、T型フォードが誰でも購入できるレベルにまで引き上げるという妙案まで導入した。かくて、米国主動、欧州・日本追従の世界自動車産業隆盛100年が始まったのである。

ここで、欧州・ドイツの名誉のために、世界で最初のエンジン付きの乗り物について述べる。フォードが4輪車「クアドシクル」の試作にも成功したのは1896年のことである。
これを遡る、1885年にドイツのゴットリープ・ダイムラーが製作した“内燃機関を搭載した世界初の2輪車”「ダイムラー ライトラート」が開発さてれている。その後、自動車産業は、19世紀の終わりころ、ヨーロッパの国々で生まれ、1913年に、先の米国・フォード社が流れ作業による大量生産を始めてから、近代工業として急速に発展した。  

日本では、1907年に内山駒之助と吉田真太郎によってつくられた「タクリー号」が、国産ガソリン自動車の第1号。その後、1911年にはじめて自動車工場がつくられたが、本格的に発展したのは第二次世界大戦後のことである。
 戦後しばらくの間、日本の自動車産業は、主要生産国のなかで最も低い水準にあった。それが急速に発展し始めたのは、1950年ころからである。このころは、トラックなど、商用車が中心であったが、1953年ころから乗用車の生産も活発になり、そのとき7000台だった国産車は、3年後の1956年には2万3000台にまで増え、その後も日本の自動車生産台数は急激にのび、1961年にはイタリアを、1964年にはフランスを上回り、大量生産、大量販売体制を確立していった。今日では、日本は米国とならんで世界最大の自動車生産国となり、世界中で生産される自動車の4台に1台は日本車である。

さて、一般的に、「自動車産業」は「総合産業」だといわれる。自動車を作るためにあらゆる産業が総動員されているからである。中でも、自動車部品を加工する工作機械は自動車産業の発展と密接に関係があり、また、工作機械の発展は、切削工具、切削油、測定具、軸受(ベアリング)、オイルシール等の急速な発展につながっている。

1966年4月、日産自動車がダットサン・サニー、同年9月、トヨタ自動車がカローラを発売し、日本における本格的な自動車時代が始まった。1959年、大学を出た筆者は総合機械企業、新潟鐵工所(2001年11月倒産)の工作機械事業部に席をおいていた。カローラ発売の3~4年ほど前、当時、業界九位の総合商社の安宅産業(1976年倒産)を通して、トヨタ自動車の4気筒エンジン用クランクシャフト及びカムシャフトの切削専用機械ラインの注文が舞い込んだのである。当時、残念なことに、日本は自動車の大量生産経験がなかった為、先進国米国にその技術を求め、技術提携に踏み切ったのである。相手の企業は米国・サンドストランド社、早速、設計係長が渡米し、機械の現状調査、情報収集後帰国、設計図の検証、チェック等が実施され、顧客トヨタ自動車との仕様打ち合わせ、見積その他詳細了解後、フルコピーによる試作機(カムシャフト及びクランクシャフト各1台)を完成し、トヨタ自動車・上郷工場(新エンジン専門工場)に納入したものである。

余談になるが、1960年当時の海外渡航は羽田空港使用であり、技術提携の為、海外出張する先輩社員の送迎に、私たち新入社員は数え切れない回数の羽田通いをしたものである。また、留守居部隊の設計者たちは、欧米で優秀とされる工作機械、専用加工機の情報収集(特に特許に係る技術)、コピー(模写、スケッチ)に明け暮れていた。因みに、主なものを列挙してみよう。超大型旋盤はチェコスロバキア(後にチェコとスロバキアに分離)のスコダ社、普通旋盤はドイツ・VDF社、旋盤の刃物台の精密さ抜群の情報収集にフランス・カズヌーブ社、分割精度を上げるために、米国・グリーソン社の歯車加工機、倣い装置(モデルを使って形状を倣わせる装置)はスイス・エリコン社及び米国・ジョージ・フィシャー社、横中ぐり盤・ジグミルについては、米国・デブリーグ社といった具合である。

このスケッチについては、次のような笑い話も残っている。工作機械も、当時は主軸回転を変換するとき、自動車同様、歯車を左右に滑らせ、歯車端にある凹凸クラッチを相手の凹凸に噛み合わせて回転を変えていた。先述のデブリーグ社・横中ぐり盤の分解、スケッチ中にクラッチ部分に白紙を置き、写し取ったあと設計室に帰り、寸法の確認中に、クラッチの歯が、軸方向に対して少しの角度、曲がっている(寝ている)ことを発見したのである。鬼の首でも取ったように、この発見を上司に報告、ここが曲がるようでは、強度不良ではないか、米国に文句を言うべき。などいきまいたのである。後日、2枚の米国特許許可証の写しが設計室に送られてきたので、良く見ると、クラッチが入りやすいように、わざと、少しの角度を付けている点 と このクラッチを加工する方法の二つを特許取得していた。

このように、日本は海外に追いつけ追い越せと、なりふり構わず技術提携、模倣コピーを実施し技術を習得して行った。が、どうしても習得できなくて、いまなお、その企業、その技術に依存しているものもあり、物造りの難しさを知るのである。

自動車重要部品の中に差動歯車がある。差動歯車は車軸に組み込まれている。運転者が、ハンドルを左に切ると、左側の車輪が遅く回り、右側の車輪が速く回る。ハンドルを右に切ると、右側の車輪が遅く回り、左側の車輪が速く回る。この歯車は傘歯車という特別な形状の歯車で、グリーソン傘歯車と呼ばれる。
これを加工するには、グリーソン社製の歯切り盤、工具を使うことになっていて、全世界の自動車製造企業は必ず御世話になっている。
日本のトヨタも例外ではない。

脱線ついでに、歯車加工技術についてもう一つ。歯車に焼入れをすると歯面形状が崩れて修正する必要がある。この加工を歯研(歯車研削)というが、この技術の世界一がスイス・マーグ社であり、この機械と精度を測定する装置も供給する。高精度のため機械と測定器は恒温室(温度、湿度管理された部屋)に設置される。   
現代の加工機械である、NC工作機械(数値制御)及びMC(マシニング・センタ)の精度、製造総数で世界一の日本が何故、歯車に関する技術習得、機械製造に消極的なのか非常に興味があり、調べてみようと考えている。

次は、生産性向上運動について述べる。周知のように、トヨタ生産方式、JIT(ジャスト・イン・タイム)、トヨタ・カンバン方式などと呼ばれる有名・生産性向上方式は、今日、トヨタ社が、ビジネスデザイン特許も取得し、同時に、どこの、どなたでも御自由に御使い下さいということになっている。

1945年、第二次世界大戦で敗北した日本は急速に復興していたが、欧米の、特に米国の国民総生産が格段に高いことに注目し、5年後の1950年ごろになって、東京大学の石川馨氏を欧米に、航空自衛隊の中井川正勝氏を米国に派遣した。帰国後、前者は、「TQC(全社的品質管理)」を、後者は、TPM(全員参加生産保全)の源流といわれる「スキル管理」を発表したのである。TQCと殆ど同時に5S(整理・整頓・清掃・清潔及び躾)、QCサークルなどが全国の物造り事業所に拡がり、平行して日本の国民総生産は、うなぎのぼりに上昇したのである。

以上、物造り(製造技術中心)と生産性運動(管理技術中心)をあげて、技術屋の見た日米自動車工業の創成期について略述した。しかし、文頭に、トヨタ社長とGM会長のトップ会談のニュース(2006年 1月17日 読売)を挙げた理由をまだ説明していなかった。

ヘンリー・フォードがT型フォードを完成させたのが、1909年、トヨタがカローラを完成させたのが1966年のことである。つまり、スタート時点で約60年遅れていた。このニュースは、日本の自動車産業が、40年(2006-1966)かけて、ようやく、欧米に追いついた証である。「商売は競争、生きるか、死ぬか。ライバルは徹底的に叩き、つぶすべきである。」という考えの企業もあるが、「共存、共栄」という考え方もある。筆者は、最近、企業の経営理念として普遍的なものは次の3項目であると報告してきた。
(1)適正に利益を出す(経済性の実現)
(2)社会に報恩、還元する(社会性の実現)      
(3)人を育てる(人間性の実現)

これから、日本のなすべきことは、自動車産業に絞っても、受けた有形、無形の恩恵に対する恩返しである。自動車に係わる研究開発(燃料電池)費は膨大であり、瀕死の状態のGMには大変である。底辺に、日米貿易摩擦回避という目的もあったとしても、感謝の意味をこめて、恩返しをすべきであろう。米国での販売不振が続く米自動車2位のフォード・モーターは1月23日、今後7年間で全従業員(北米生産部門)の約25%に相当する最大3万人を削減することや、組立工場を含む計14工場を閉鎖することなどを柱とした経営再建策を発表した。「共存、共栄」、困ったときはお互い様。日本としても何かが出来る筈である。


ついでに、若い技術者に申し上げたい。日本では、「米は八十八と書く」と教える。つまり、御飯として口に入るまで、88という工程(関係する人)に御世話になるという意味なのである。ゆえに、食べる前に、これらの人々に感謝の意味で「いただきます」と、大声で、時には、心の中で唱えるのである。

物造りには、機械設計が不可欠。構想(アイデア)作成、強度計算、機械要素(エレメント)の選択などいろいろ求められる。例えば、大学、工業高校で習った「機構学」の本を見れば、先述の「差動歯車」について、構想と計算式が書いてあり、左右車輪の回転数が合理的に計算できる。設計・開発技術者であるならば、産業革命以来、多くの先人、先輩の血と涙の結晶が「機構学」という学問に集約されていて、これを、今日、何の制約なしに使わせてもらえることに感謝して欲しいのである。

これから、物造りの技術者を採用するときは、学歴よりは、次の気質を重視すれば良い仕事をしてくれると考えるが如何。
① 素直な心を持った人。
② 感謝の気持ちを持てる人。

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